怒っている自分・苦しんでいる自分は本当の自分じゃない。
人が人生を生きていくにあたって、「正しい」とは何でしょう。
正しいとは、道理にかなっていると言い換えることもできます。
道理にかなう。
道理とは、物事の筋道が通っている事と辞書にはあります。
ですがその筋道、いったい誰が、いつ決めたのでしょうか。
また世の中には「普通」という言葉もあります。
いつ、どこにでもあるようなありふれたものであること。
他と特に異なる性質を持っていないさま、とあります。
急に何を言い出すのかと思うかもしれませんが、次に紹介する言葉も同様、自分や周りにとっての「当たり前」が、気づくための障害になっているという事をお話ししたいのです。
他にも、「失礼」という言葉もあります。
失礼というのはどんな時に使われるのか。
たいていは、相手が自分に対して敬意を払っていないと思われる態度をとった時です。
自分に対する敬意。
なぜ自分には、その敬意を払われるべき価値があると思うのでしょうか。
敬意とは、必ずしも上下の関係がなければ成立しません。
敬意とは、下から上に向かっての態度ですから。
つまり自分は、自分の内面を明確に理解していないのに、無意識に自分は相手より上の立場であると思っているのです。
「なぜ」そう思うのでしょう。
貴方は昔から相手に対して失礼だなという感情を抱くような子供だったでしょうか。
そんなはずないですよね。
今まで生きてきた人生、積み重ねてきた経験の中で、自分を相手よりも上の立場だと思ってしまうほど、ご努力をなさって来たのだと思います。
失礼という言葉を使う人に俺が抱く、その人が思いそうなことを代弁しますと恐らく、「何だこいつは。俺はあれだけ苦労してここまでやってきたのに。
それを、何も知らないこいつは何様のつもりでこんなことをするんだ」
ではないでしょうか。
恐らく、その失礼という思いが強くとも弱くとも同じような理由で。
ここまで読んでくださった人の中には、失礼という言葉を使う人を非難する文章のように思うかもしれません。
ですが誤解しないでいただきたいのは、俺は全くその人を否定したいわけではなく、この失礼という言葉を使う背景には、その人の本質を探るヒントが隠されているという事を、気づいてほしいから書いているのです。
突然ですが、自分に対して失礼だと思った相手を、心から許せと言われたらどうしますか?
到底許せませんよね。
「だって、自分はあれだけ頑張ってきたのに、こいつはその努力もしないでこんな態度をとっている。
もし俺がここでこいつを許したら、俺のあの時の努力は何だったんだ。」
お察しします。
俺にはその人の努力がいかほどのものか想像もつきませんが、つらいという気持ちだけは、経験上痛いほどわかります。
ですが一つだけお聞きしたい。
なぜその人はその相手に対して怒るのか。
許せない。この感情を抱いているときに真っ先に出てくる感情とは怒りではないでしょうか。
怒りというのは二次感情と呼ばれていて、大抵はつらくて耐えられない、苦しい思いを抱えている人が、現実世界の感情を表す権利をその怒りという感情に渡しているから起こる現象なのです。
証拠というわけではないですが、個人的な気づきとしてこんなものがあります。
怒りという言葉を使うとき、よく一緒に使われる言葉として、怒りに任せる・怒りに触れる・怒りに飲まれる・怒りに火をつける・等の使い方があります。
これらの言葉の共通点として、自分が抱いている感情なのに、「自分」とは別の場所にある感情だという事です。
任せることも、触れることも、飲まれることも、火をつけることも、全てその行動をとる対象がなければ成立しませんよね。
以上のことを踏まえたうえで覚えていてほしいのは、怒っているのは「自分」じゃないという事です。
怒りとは、つらくて悲しくて、頼らなければ心が壊れてしまうというようなときに、自分の代わりに状況に一手を投じてくれる、頼もしい存在だという見方も覚えていてほしいのです。
じゃあ「自分」とは何なのか。
それは自分を認め、他人を認め、趣味に邁進して明るく生きて、時には悲しみに暮れて、ほかの人が苦しんでいるときに手助けをするための経験を積んでいる存在。
それが、皆さんの「本当の自分」なんです。
勢いのままに書いた文章なのでまとまりがないですが、世の中には怒りと自分を混同して考え、自分はこんな人間なんだと自分の評価をむやみに下げている人が散見されるように思います。
外に対して怒りを表現している人は、自分の心を必死に守ろうとしているのです。
ただ怒っているのではなくて、ひたすらに苦しんでいるんです。
まずは、その状況に対して怒りを呼び出す原因になった自分の心の声に耳を傾けて、要は、今本当は何をしたいのか知って、そちらを優先してもらいたいのです。
もちろん、現代社会に生きる上で、自分優先で考えることがいかに難しいかはわかっているつもりです。
ですが、自分を押さえつけ続けるメンタリティーでは、いずれその限界が来ます。
忙しい時ほど立ち止まって、外で目を閉じて風を受け、肌を撫でる感触を感じてみてください。
怒りや苦しみの中にある人に届かせる言葉としては、はなはだ力不足を感じるところですが、俺がこの人生で得てきた経験の中で、少しでもお役に立つものがあることを信じて書いた所存です。
すくなくとも、怒り狂う自分を本当の自分だと思わないでいただければ、それだけでこの記事を書いた甲斐はあります。
まだまだ若輩の身ですが、これからもよろしくお願いします。