できないことに意識を向けるのではなく、できることをやっていく。
お久しぶりでございます。
この記事から見始める方は何のことだかわからないとは思いますが、俺はこの二週間余り、自分にできないことにばかり意識を向けすぎていました。
上手く書けているブロガーさんの記事ばかり参照し、書き始めてみては、クオリティーの低さにがっくりと肩を落としていました。
しかし、とあるきっかけで俺は気づいたのです。
自分は文章が作れるじゃないか、と。
拙いながらも、自分の思いを形にする術を持っているじゃないかと。
できないこと・足りないことに目を向けるのではなく、どんなに当たり前のことでも、自分にとって当たり前にできることを最大限使って前向きに生きる。
俺には目がある。だから画面を見る。
俺には手がある。だからキーを叩く。
俺には足がある。だから仕事に言ってお金を稼ぐ。
俺には考える頭がある。だから文章に考えを起こす。
俺には心がある。だから、したいと思ったことをする。
どれも、あるからこその当たり前。
確かに、できないことに目を向けることで見えてくるものは沢山あります。
そう思ったからこそ、今まで俺も自分を省みるという行為を繰り返してきました。
ですがどうやら俺は、そのバランスを欠いていたようです。
手前みそですが以前書いた記事の
状況に対する認識の範囲を拡大する。~個人的な見解~ - 大地に根差す!やけっぱちブログ
で、頼りになりそうなものを手にしていると、どうしてもそれだけに頼りがちになる、というようなことを書きました。
自分にとって、できないことに目を向けることこそが最善の道なのだと思い込んでしまっていたことが、記事を書くのがつらくなった要因の一つではないかと思いなおしました。
なので今後は、一日の内に一度でいいから、自分が絶対にそうだと確信しているやり方・考え方について、真逆の方法について考えてみる時間を持つことにします。
唐突ですが、一つお聞きしたいことがあります。
自分が一つのことに対して、あらんかぎりの言葉を行使できる状況ってなんだと思いますか?
いろいろと意見はあると思いますが、俺は個人的に「言い訳」だと思っています。
先日も、できないことに立ち向かっていた時、なぜできないものをそのままにしておくのかと自分に問いかけてみました。
すると、それまで頭にかすみがかかったようにボーっとしていた頭が急に回転し始め、
「自分にとって正当な、できない理由」がつらつらと上がってきました。
このやらない理由を語っているときに、常に頭の中を渦巻いていた言葉があります。
「それでいいじゃん」
自分にとって後ろ向きな理由を語っている時、心の中ではずっとできないことを容認し続けていたんです。
ただ後で思ったことですが、これは逆の立場でも言えるのではないかと。
できることに目を向けた時、そのできることで何かをすれば「それでいいじゃん」と。
要は、自分にとってどちらを容認するかという話なのです。
できないことを意識し続けて動かないことを容認するのか、最低限出来ることに意識を向けて、それを容認することで行動を起こし、できる行動とそれを容認する理由を増やしていく。
どちらを選ぶかは人それぞれですし、すべての時間は無駄にはなりません。
俺も今まで、ごり押し脳筋プレイでしかやってこなかったゲームに当てた過去の時間。
この時間によって想像力が極限まで退化したおかげで、想像力を早急に身に着ける方法を会得したわけですし。
今でしょ、の林先生ではないですが、やろうと思ったその瞬間がタイミングなのです。
逆を言えば、この記事を読んだり、上記の方法を試しても気分が乗らなかったりした時は、そうしなくていいタイミングなのかもしれません。
ですが、一度体験したことや見たものの記憶というのは、自分にとってどうでもいいものでない限り、必要な時に自動で思い出される仕組みになっていると思います。
個人的経験則として。
だからいまこの記事を読んで、仮に今は必要でなかったとしても、記憶の中には残り続けて、必要な時に「そういやあ、昔こんなことを言っていた変人のぼんくらがいたなあ」と思い出すかもしれません。
あわよくばこの記事に書いた言葉が、どこかの誰かの決断の一助になってくれることを願っています。
それでは今回はこれで。
PS.お久しぶりの「座右の銘」です。
今回は短めのものを三つご紹介します。
精神は行動にならなければなりません シュバイツァー
個人的には、精神は行動に「なれる」という解釈です。
ならなければならないというと、無理をしてしまう人が多そうなので、一応言っておきます。
まずは自分のしたい事をして、前向きになっているときに行動に移しましょう。
後ろ向きなまま行動に移しても、多くの知識や知恵を見落としてしまいます。
少しずつでも前向きな時に取り組んで、小さな発見を見落とさずに、少しずつ研鑽(けんさん)を重ねましょう。
ただ溌剌(はつらつ)とした活動によってのみ、不愉快なことは克服される。 ゲーテ
今回の記事でこれに非常に共感しました。
自分ができることに意識を向けて、少しずつでもやったという足跡を残すことで、この間まで持っていた満足のいく記事を書かなきゃいけないという強迫観念のような不愉快さが克服されたような気がします。
見方を変えるって大事ですね。
重要なことは何を耐え忍んだかという事ではなく、いかに耐え忍んだかという事である。 セネカ
何を耐え忍んだかというのはもっと先、いかに耐え忍んだかというのは、今の自分に活かせる考え方だと思います。
まず何を耐え忍んだかですが、これは自分がやってきた実績、自分はこれをやったのだという確かな自信につながることです。
対して後者のいかに耐え忍んだかですが、これは再三言ってしつこいかと思いますが、日記やイラスト、果ては彫刻、踊りでも、自分の気持ちを目や耳で感じられる媒体として形にすることで、少し先の自分に活かし、行動を改めるヒントにすることができると思います。
迷ったときは、過去の自分の形に目を向けることで、今の自分が明確化していくと思います。
今の自分と昔の自分、どこが一番変わったのか。
心境の変化は今と昔の作品にどうあらわされるのか。
探求の手段だけにとどまらず単純に楽しいので、お試しあれ。
それではこの辺で。お時間いただき有難うございました。