在り方探し。

いわゆる雑記ブログです。

状況に対する認識の範囲を拡大する。~個人的な見解~

今回は、五感に意識を向けると見えてくるものについて考察したので書いていきたいと思います。

 

たとえ話ですが、皆さんは真っ暗な洞窟の中に、懐中電灯一本をもって入った時、どの感覚を頼りに前に進みますか?

 

 

たいていの人は、懐中電灯の光のみを頼りに前へ進むと思います。

 

実際同じ状況に立たされたら、俺もそうしてしまうでしょう。

 

ですが、懐中電灯の細い光では見えないものがその洞窟には隠れていて、もしかしたら照らし損ねて暗闇からそれが襲ってくるかもしれない。

 

人は、頼りになりそうなものを手にしていると、どうしてもそれだけに頼りがちになります。

 

一番確実な方法「のみ」を信じて前を向こうとします。

 

ですが思い出してください。

 

私たち人間には、野生動物にも負けていない感覚器官があるじゃないですか。

 

そういうときこそ五感を使うんです。

 

天井から滴った水滴が落ちた時の音の反響に意識を向けて、自分が今いる空間の広さを想像する。

 

壁に手をついて進んだ時に感じたふかふかした感触に意識を向けて、その洞窟では苔が生えているのかと想像する。

 

苔が生えているというのはどういうことか。

1.適度な日当たりがある。

2.空気中及び土中の湿度が高い

3.風通しが悪い

以上が苔の生えやすい場所の特徴ですが、しかし今は真っ暗。

上記の1の条件を満たしていない。

 

しかし生えているという事は、ここには光が差し込む場所である可能性がある。

 

しかし今は真っ暗だから、外は夜なのかもしれない。

などと想像することで、だんだんと見えてくるものが増えていきます。

もしかしたら、真っ暗すぎて上を向く暇さえないほど不安だったのに、その想像をしたことで顔を上に向ける余裕ができて、その天井の少しの切れ目を認め、そこから星の光が見えて安心感を得るかもしれない。

 

長いたとえになりましたが、見えているもののみに頼るより、今自分が感じている感覚に意識を集中すると、見えてくるものも増えるものだと俺は思います。

 

同じように実生活でも、自分の感覚に意識を向けることで見えてくるものがあるかもしれません。

 

ちょっと焦げ臭いと思ったら、火を消し忘れた朝のみそ汁を思い出したり、あるいは花の香りを感じてふと窓の外を見ると、秋であれば金木犀の香りを感じて心が和むかも。

 

普段意識を向けていないだけで、自分たち人間は非常にたくさんの感覚を感じています。

時には問題だけに意識を向けるのではなく、感覚に意識を向けてみることで、思わぬところで解決のヒントが見つかることもあるかもしれません。

 

自分から探しに行くのではなく、状況に対する受け皿を大きくしてヒントを掴む。

忙しい時こそ難しいことなのでしょうが、一度深呼吸をして、時間の流れが遅くなったように意識してからやってみると、意外なものが見えてくるかもしれません。

 

気が向いたら試してみていただけると嬉しいです。

 

ちょっとした思い付きでしたが、以上になります。

お付き合いいただきありがとうございました。

 

PS.今回もいつもの「座右の銘」の時間です。

一箪の食、一瓢の飲

 中国の故事に出てくるかの有名な孔子の言葉です。

彼はその昔政治家を目指していたようですが、夢かなわず引退して、その後3千人もの弟子を養成したそうです。

その中で「高弟」(こうてい)と呼ばれる3千の弟子の中でも特に優れた七十二人、いわゆる「七十子」(しちじっし)と呼ばれる人たちの中でも、特に!孔子からの信頼を多く受けていたお弟子さんがいました。

 

その方は顔回(がんかい)という方で、孔子からも、生まれも育ちもよく、頭もよくて優しいとても優秀な子だねと、蝶よ花よと可愛いがられていたそうです。

 

孔子は、不幸な生い立ちからか自分にコンプレックスを抱えていて、その素直な顔回がそのまま成長すれば、今までよりも賢くて優しい素晴らしい人間になるだろうと、ある種のあこがれさえ抱いていたそうです。

 

孔子顔回についてこう語っています。

「賢なるかな回や。一箪の食、一瓢の飲、陋巷(ろうこう、狭くきたない路地)にあり。

人はその憂いに耐えず。回やその楽しみを改めず。賢なるかな回や。」

顔回は偉い男だ。

竹かご一盛りのご飯と、ひょうたんに水がいっぱい入っているだけで、しかも裏路地住まいで満足している。

 普通の人間なら、不安や焦りでとてもあんな風にはいられないだろう。

顔回はそれを少しも気にせず楽しそうに道を勤しんでいる。

貧しさに心を動かさない顔回は賢人だ。

 

一般的な欲望にとらわれずに、我が身を天に任せきって、何の懐疑も抵抗もなく、自然の中に溶け込もうとし、そうすることに無常の喜びを感じている顔回の姿は、孔子にとってこの上なく尊い(とおとい)存在として映ったのでしょう。

 

名利世俗(みょうりせぞく、名誉や利益)にとらわれず、のびやかに生きている人間ほど強いものはない。

そんな心境に達したらどれだけ幸せだろうか、と。

 

メインテーマに無理やりつなげるなら、顔回は感覚に素直に生きて、楽しんでいたのだと思います。

頬を撫でる風の感触、舌を踊り喉を滑る食べ物の食感、小鳥さえずる環境音、鼻をくすぐる花の香り、目の前にあるそれぞれの新鮮さなど。

 

とらえ方を変えようとつとめれば、決して不可能ではないと俺は思います。

少しづつ良さを理解していけば、いずれその世界を感じやすくなるでしょう。

今回はそんなところですかね。

有難うございました、それでは。