決意表明と反復の効果のお話。
足りないことに目を向けられるのも才能です。
俺は今まで、他人から役立たずと言われるのが嫌で、性格改善のための知識、知恵をため込んできました。
ですがぶっちゃけたところ、周りからすれば俺は、そんなことは気にせず自分のやりたいようにやればよかったんです。
役立たずと言われようともそこに居続けて、給料を取れるだけ取っていくことだってできたはず、選択肢としてはあったはずなんです。
俺が周りを省みなければ。
ですが、俺はそれをしませんでした。
俺は、今につながる知識を手に入れるために、自分を卑下し、自分を変える方法を模索し続けました。
その末に高次元という考え方を身に着け、見事、俺史上最も嫌っていると言っても決して過言ではない兄を許し、むしろ感謝すら抱くようになりました。
自分が成長したという喜びを味わう経験、自分を変えるための努力を選ぶきっかけをくれた経験。
いま、その経験を活かすことで、もしかしたら見てくださる読者さん方の中の一人、たった一人にでも、自分は変われるんだという希望を持たせられるかもしれない。
そして、そんな他人に希望を与える希望を養ってくれたのも、紛れもなく兄からの嫌悪という経験があったればこそなのです。
これほどの喜びを見出させてくれたのに、いまさら何を恨むことがありましょうか。
今は本気でそう思っています。
敢えて書きましょう。
幸せを感じる道は、社会で成功するだけじゃありません。
自信をもって生きることだけでもない。
自分が挑戦したいことについて少しずつ知っていって、自分にできる範囲で少しずつ挑戦していって、たとえ公然と認められなかろうと、どこかの誰かの希望になれる可能性を自覚することも、幸せになれる道なのだと、俺は思います。
現に俺は今幸せです。
親のすねをかじるという、一般常識的に言えば責められるような状況にあっても、そのじつ社会に出ていない、同じ悩みを持った人を救えている可能性は、必ずしも否定できません。
俺は事実、今まで多くの創作物を目にして、たくさんの人が「これはダメだ」と判を押すようなものから、多くの知恵を吸収してきました。
当時は日記を書いていなかったから思い出すのは難しいし歯がゆいですが、結局のところ、受け取るのは見た人次第だし、どんなに社会で認められていなくとも、素晴らしいものは素晴らしい!!!!
素晴らしいの基準とは何か!
それは、この世界でたった一人でも、自分の認識し得ないこのとてつもなく広い世界の中で一人でも、素晴らしいと賞賛してくれる人がいることです!!
俺はこの日本の中に一人でも、俺の文章を読んでそう思ってくれる人がいるかもしれないと信じています。
だって、否定できないんですから。
どんなに頑張っても、世界中のすべての人類の感性を調べ上げることは物理的にも時間的にも不可能です。
神様じゃないんですから。
近いことはできるかもしれませんが、それは、日本の人口すべてではないでしょう。
どこまで行っても、どちらが多いという統計でしかない。
もしかしたらその調べる方法に参加していない少数の中に、自分に自信をつけて大飛躍する人がいるかもしれません。
いやむしろ、必ずそうであると断言します。
なぜなら、社会で認められていない人間は、社会に対するおかしな点について情熱を燃やせるだけのポテンシャルを秘めているからです。
社会で認められないことで、認められないがゆえの暗部を知り、それに対して使命感を抱くと思っています。
こんなことがあってはならない。
だからこそ、あんな経験をした自分だからこそ、できることがある。
そう思って挑戦をしだした人が、現状を変えるかもしれない。
その可能性は十分にあると思います。
あとは、この文章を読んだ読者の方々の中に、曲解して人を殺すような間違いを犯す人がいないことを祈るばかりです。
俺は正直、この世界から争いや悲劇がなくなるとは思っていません。
ですが、その争いや悲劇から多くを学び、次の世代、次の世界に活かす道は必ずあると、厳然と信じて疑いません。
だから俺は、少しでも己を前向きにとらえられる人が増えるよう。
世界に少しでも自分を認められる人が増えるよう、これからも書き続けます。
とりとめもない日常の一コマや、面白いと思った動画、マンガなどについても書くかもしれませんが。
今日はこの辺でおしまいにします。
ちょっと頭を冷やしてきます。
それでは。
PS.ええ、今回の座右の銘の時間ですが・・・、先に言っておきます。
本・当・に・適当に開いて出てきたページに書かれていたことです。
敢えて言うなら勘でしょうか。ちょっと当てはまりすぎてて薄ら怖いです。
三人市に虎ありと言わば、王これを信ぜんか
中国の故事で、戦国時代の法家(ほうか・法律学者、法律家)が選んだ「韓非子」(かんぴし・韓非という法律家の方の著書)の中の、「内儲説上」(ないちょせつじょう・恐らく書の中の一節)に次のようなエピソードがあるそうです。
魏(ぎ・三国時代に華北という場所を支配した王朝)の皇太子が邯鄲(かんたん・いわゆる敵国)に差し出されることになり、これについていくことになった高官が、魏の王様に質問しました。
高官「町に虎が出たと1人の人が言いました、王様はこれを信じますか?」
王様「信じない」
高官「町に虎が出たと2人の人が言いました、王様はこれを信じますか?」
王様「信じない」
高官「町に虎が出たと3人の人が言いました、王様はこれを信じますか?」
王様「それなら、信じる」
王様の答えを聞いた高官はこう言いました。
高官「町に虎が出ていないことはわかっているんです。
それなのに、三人が同じことを言ったら信じる、と王様は言います。
邯鄲は、町よりもはるか遠くにあります。
そこで何が起こり、行われているかはなかなか分かりません。
そんな邯鄲に行く私に関して、多分留守中にとやかく悪口を言うものは、三人どころではないでしょう。
どうかこのことを、深く心に留めておいてください。」
しかし、この高官が自国に帰って来た時、留守中に大勢の人たちから受けた嘘をそのまま信じ切ってしまった王様は、その高官には二度と会いませんでした。
最初は嘘だと思っていたことでも、繰り返し言われるたびにいつのまにか真実だと思い込んでしまう。
「反復の効果」と呼ばれる現象だそうです。
テレビのCMなどで繰り返し流れるものを、いつのまにか気に入って買ってしまうのと同じです。
もしも誰かが、悪意を持ってこの「反復の効果」を使ったとしたら、極めて危険です。
しっかりと現実を見る目と判断力がないと、ころりっっと騙されてしまうでしょう。
高官にあれほど言い含められても、大勢に言われた嘘を信じてしまった王様を見れば、その怖さがわかります。
ここまでが、ほとんど本の内容をわかりやすくしたものです。
貴方は自分の信じる道の先に、何を見ていますか?
難しい問題ではありますが、判断をするときの一助になれば幸いです。
それでは失礼します。