下書き、どうか浮かばれますように。
今週のお題「下書き供養」
こうしてお題を提供していただけのは本当に有り難いですね。
下書き供養とのことなので、1000文字以下の短文と勢いで書いた詩のようなものを載せたいと思います。
記事にする気が失せたほどのものなのでクオリティはお察しで。
ではどうぞ。
人は成長する側にしか向けない。
どうあがいても、頭に入った情報を意図的に忘れて、もう一度苦労や苦痛を経験することは出来ない。
苦労や苦痛を味わうということは、その経験によって生じる学びや、そこから離れたときの爽快感や幸福感も同時に味わっているということでもある。
新しく入ってきた価値観は、それが自分の生き方の軸に沿ったものであればあるほど、記憶にこびりつき要所要所で思い出される。
そうしてしっかりとした学びに昇華すると、ちょっとやそっとでは同じ間違いを犯さなくなる。
私が過去に向けるべき目は、そのかけがえのない辛かった時間を余すところなく味わってくれた自分に対する感謝の目だ。
その苦痛があったればこそいまがある。
あの時に比べれば、と感じられる幸福がある。
あの地獄のような時間を過ごしていなかったら、これほどの幸福は感じられていなかったかもしれない。
耐え抜いてくれた自分に感謝。
長く苦しい道を歩き続けた上でなお、自殺という逃げ道に逃げ込むこと無く、命からがら現在の自分に命のバトンを繋げてくれた恩は決して忘れない。
正解の道ではなかったとしても、その道をしっかりと感じて次に繋げるバネを形成してくれた過去の自分は、何を思って今を歩く自分を見つめるのか。
人によって意見は違うだろう。
ある人にとっては、人の苦労も知らないでとの罵倒。
またある人にとっては、頑張れよとの激励。
その長い問題から解き放たれた現在の自分は、過去、長く苦しんできた自分に対して何をしてやれるのか。
仮に過去の自分が罵倒を浴びせたとしても、過去の自分を痛め付けるというのは、過去の経験を振り返らずに、あえて同じ場所にとどまり続けること。
しかし、ちょっとした言葉からも閃きによって学びを得るなど、成長する側にしか向けない現在の自分にそんなことはできない。
つまりただ生きているだけで、過去苦しんで来た全ての自分を癒しているということだ。
現在の自分が過去の自分にしてやれることは、過去から学び、今を懸命に生き、未来をより良くしようと志すことだ。
次に勢いで作った自分を鼓舞するための詩のようなものです。
悪路のようなでこぼこ人生
どうせ見るなら一寸先を
ちょいと頭を上げたらば
勝手気ままに希望はきらめく
くじいた足をかばいつつ
「人の気持ちも知らねえで」
悪態ついてもやれるは一つ
「今」から始まる最初の一歩
一寸先を睨みつけ
今から始まる第二の一歩
お恥ずかしや、何も言わねえで下せえ。
恥で頭が爆発しない内にお暇させていただきます。
それでは。