在り方探し。

いわゆる雑記ブログです。

役に立たない過去とは何か。

あなたは最近、なにか後悔しましたか?

 

後悔した時に自分の頭を取り巻く思考で

真っ先出てくるのは、

自分が不幸だと嘆く(なげく)感情じゃないでしょうか。

 

俺もいままで散々後悔してきたので

その考え方自体は否定しません。

 

でも、落ち込むだけ落ち込んだら

前を向かなきゃいけないのもまた事実。

 

その状況に陥ったという結果にだけ目を向けるなら

不幸なのは言うまでも無いでしょうが、

冷静になれた時に

「それによって生じたメリット」

に目を向けるのも必要なことです。

 

得たものを自覚しなければ

利用することも出来ませんから。

 

今現在結果に囚われている状態の人にも、

この記事が役に立つことを願っています。

 

 

 

リアルと理想、どちらを取るか。


いま、何かやりたいことがあったとして、

それを我慢して起こるのは

次のような事ではないでしょうか。

 

抑圧された感情はストレスや

衝動となって別の方向へ向かう。

 

当初の目的とは違う方向で結果を出す積極的な選択肢

(親に夢を否定され別の道を歩まなければならない)

 

長い時間の中で「経験」を得る消極的な選択肢

(自暴自棄になり引き込もろうと暴れる)に使われる。

 

それぞれ積極的か消極的かによって

次のような効果が得られる。

 

積極的な面で言えば資格の取得や筋トレ、

スポーツなどの練習。

 

消極的な面で言えば絶望して

自問自答を繰り返すことで深まる視点の拡張。

(普段であれば疲れるから・考えたくないから、

とやろうとしない思考や考察を、

落ち込んでいるからこそ

無意識に進んでやろうとする。)

 

どちらにせよ能力はやっただけ育って行きます。

立ち止まって考えるのも同様に、

「考える能力」と「思想」が強まります。

 

地球は行動の星。

「動かないという行動」

も全くの無駄ではありません。

 

人間は意識的に意識を止めよう(瞑想)としない限り、

精神面も含めて常に"何か"をしています。

 

何かを考えたり、

五感から取り入れた情報を脳で処理したり。

 

たとえ現実として望ましい結果(社会的な成果)

が残せなくても、一秒一秒を感じ

経験することに意識を割いています。

 

そしてそれが後に考えを改めるのに使う材料、

つまりは記憶になる。

 

ふと問われてもすぐには思い出せない記憶が、

その時々で経験として蓄積されていく。

そして経験はいつしかその人の血肉になり、

その後の行動選択に影響を与えます。

 

なにもしなかった時間を活かすも活かさないも、

全ては常に「現在のその人」に寄るんです。

 

ですがそうした、

「一般的に見て望ましくない行動」の数々は、

大多数の何も知らない人間によって

"無駄"の烙印を押されます。

 

過去の経験を活かすも殺すも

その人の意志と視点次第だというのに。

 

自分の意志以外の要素によって変わる未来が

良かろうと悪かろうと、

「どう捉えて」「何をして」「どうなるか」

を決めるのは常に自分です。

 

結局の所プラスとマイナスの

「どちらを見たいか」

が重要なんです。

 

リアルな罵倒が溢れる世界で

自分を苛め続けて最後は人生を棒に振るか。

 

あるいはプラスの意見に耳を傾けて、

適宜(てきぎ)精神と体を癒し、心の余裕を取り戻し、

元気になったところで

少しずつ過去に目を向け自分に出来る事を探すか。

 

誰も「休むな」なんて言ってません。

 

疲れた時に休むことを否定する人は、

大抵追い詰められているだけです。

 

 

どれ程の過去が「本当に」無駄だったのか。


その場で必要だから磨く能力。

例えば簿記や英検・ボールペン字など、

身に付いた力は必ずどこかで役に立ちます。

 

過去の経験によって自然と身に付いた動きや考えは、

試練の場でなくとも気づかない内に

生活の色んな部分に過去との違いを与えています。

 

例えばフェルマーの最終定理に挑む苦学生も、

幼少の頃に身に付けていつの間にか血肉となった

1+1=2の計算がなければ今の状況はありません。

 

↑この計算式を身に付けたとき、

この計算をしたことで得られた計算能力が

別のところ(フェルマーの最終定理の計算)でも

役に立つだなんて、想像もしていなかったでしょう。

 

人間は一つの経験からも

「一つの結果」に留まらずに多くの事を経験し、

無意識に今後の人生の糧にします。

そう言う風に出来ているんです。

 

小学校の頃の何気ない思い出が、

将来の仕事を決める手助けになったりもするでしょう。

職業体験であったり友人とのやり取りであったり。

 

学校に限らなければ、

両親や親戚と出掛けた先で見つけた思い出に

ヒントが隠されていたり。

 

小学校の頃友達と遊んだ思い出が

別のところでも役に立つなんて想像も(ry

 

貴方がいままで他人から

無駄だと評された経験はどれだけ在るでしょうか。

 

そのうちのどれ程が、「本当に」無駄だったのでしょうか。

 

詰まるところそれだけ、

社会で言われている無駄という概念の

当てはまる分野は少ないということです。

 

もしかしたら単に見つかっていないだけで、

無駄だなんて考えが当てはまる経験なんて

本当に何一つないのかもしれません。

 

そう考えるだけでも、

過去を活かすという視点に目を向ける意欲は

ほのかに沸き立ってくるのでは無いでしょうか。

 

今までの世の中では、

おそらくこの無駄と思われていた時間を

活かす方法が確立されていませんでした。

 

ですが俺は言いたい。

世の中の視野は狭すぎる。

断定するにしても気が早い。

 

「自分」とは、

知識・知恵・経験の宝庫です。

 

探ろうと思えばボロボロと

有益な情報が溢れ出てくる魔法の壺のようなもの。

 

ただそのやり方が今まで、

「有益な情報」として有料の分野に限定されて、

お金を払わなければ知ることも出来ず、

その間にも時間は刻一刻と過ぎていき、

引いては世間一般に広まることが無かった。

 

情報商材で食べている人がいることは勿論知っていますが、

一部の有識人に広まったところで、

その人達が最大限その知識を活かせるとは限らない。

 

人には向き不向きがあるように、

1の知識から10を知る様な向学意欲と才能溢れる、

その知識を必要とすれども

お金を払えない人が山程いるものと俺は思います。

 

単に高い・疑わしいというのもありますが、

博打傾向の強い情報商材に高い金を出して学ぼうとする人は、

国の人工の比率から言えばかなり少ないでしょう。

 

その極限られた人だけが知識を最大限活かせるかと言えば

「どうなんだろう」と思わざるを得ません。

 

むしろ俺のように社会から

「役立たず」だと爪弾きにされた人間が、

特定の情報から向学意欲を爆発させ、

これ程「自分」という者の価値を知ることが出来た。

 

世の中は人の成長力を嘗め(なめ)すぎだと思います。

 

こういう自分を活かす情報こそ「多くの」人が知って、

吟味し、練磨し、洗練し、話し合い、共有し、

高めていくことが重要なのではないでしょうか。

 

身につけた能力が望んだ形で役に立たなかった場合、

別の場所で今までその能力を身に付けて

得られたメリットは無かったかどうか。

 

また他の能力であればその場をうまく切り抜けられたか等、

細かいところまで最大限考えてみるといいでしょう。

 

あるいはまだその場面に

出くわしていない「だけ」かもしれません。

 

余談ですが俺は学生の頃、

小学校三年から高校卒業までの大体九年間、

ずううううっと黒板を綺麗にする係を

誇りを持ってやっていました。

 

高校の頃はその実力を買われて、

特別教室の黒板の掃除も任されたほどです。

 

ところが社会に出て黒板に出くわす機会など

ただの一度も御座いやせん。

 

そこで俺はその経験が活きるよう、

窓ガラスを拭ける掃除の仕事を選びましたが、

見事それぞれの職場で、

窓ガラスだけは誰からも評価されるほど

綺麗に出来ていました。

家でも大晦日の窓ふきは俺の独壇場の様なものです。

 

あの黒板消しの経験が無かったら、

社会から見捨てられるのが

もう少し早まったかもしれません。

 


一度でも経験したことは、

感情に裏打ちされたものであればあるほど

強く記憶に刻まれる。

 

過去の辛い経験は過酷であれば在るほど、

「あのときに比べれば」と思い直して、

自分を奮い立たせる事も出来ます。


つまり”苦痛でいることすら”役に立てる事が出来る。

 

それに、人はそう簡単には死にません。

餓死しそうになっても

「栄養のあるものは食べられる」

と脳が判断して行動に走らせます。

 

人間に考える脳と本能と、

心から望む目標と叶える意志があれば

そうそう死なないんです。

 

逆に危ないのは自分の好きなことも知らず、

他人の為だけに生きて、

仕事を請け負うことで他人からの評価を稼いでいる

目標のない人間です。

 

まさに昔の俺のような。

 

こういう人間が一度絶望すると、

「生きていても何も良いことがない」と

自ら死を選びやすくなります。

 

仮に辛うじて何かひとつ好きなことがあったとしても、

それよりも苦痛が勝ってしまえば

諦めるのも時間の問題なんです。

 

俺は事実ホームレス実験をやった時に

強くそう思いました。

これについてはこの記事と一緒に上げた

知恵袋に載せた回答の記事に詳しく書きました。

知恵袋流用記事 絶望とホームレス実験について。 - 在り方探し。

 

また当時の苦労がなければ、

いつか出会う大切な人の相談にも

乗れないかもしれません。

 

あるいは当時苦労していたがゆえの視点が無ければ、

重要な選択を誤っていたかもしれない。

 

信じる信じないはその人次第ですが、

苦労があった場合と無かった場合の未来を比べた時、

どちらが精神的により強くなるかと聞かれれば、

間違いなく前者なのです。

 

少ない例を無理やり上げれば、

確かに苦労がない未来の方が

精神的に強いと言うことも有るかもしれない。

その場合はそっちの説を信じればいい。

 

結局は「どちらを見たいか」です。

苦労がなかった未来で存在するメリットは俺には今のところ、

「失敗を知らないがゆえに果敢に挑戦出来る行動力」

くらいしか思い付きません。

こちらも勿論大事なことではありますが。

 

過去の辛い経験が役に立たない場面とは

一体どんな場面なのでしょうか。

 

「過去の苦痛などどうやっても活きない」

と決めつけて生きれば、

そんな場面は腐るほど出てくるでしょう。

 

「二人の囚人が鉄格子の窓から外を眺めたとさ。

一人は泥を見た。一人は星を見た。」

 

これはジョジョの奇妙な冒険という漫画の

始めに出てくる言葉ですが、

まさにこれと同じことです。

 

二人の囚人が牢の中で星を見るのか、

地面の泥を見るのかの違いです。

 

逆に活かそうと思えば、

役に立つ場面もそれこそ無限にあるのです。

俺はそのために日記をつけていますし、

時々見返してもいるんです。

 

直近であれば去年の

2021年3月7日午後の日記にて考察した、

「強者はなぜ余裕なのか」

という疑問が役に立ちました。

 

当時の俺の考えでは、

「強者は自分と向き合い乗り越え、

敵と対峙したときにも実力でもって

返り討ちに出来る力を手に入れたから、

二次感情である怒りの原因になる、

恐怖心や怯えを抱かないのだ」

と思っていました。

 

普通であればこんな知識は活かし様がありませんが、

もしこの考察よりも前の俺が、

ブログというものを完全に度外視していたら、

この場でその知識を活かすことも出来なかったでしょう。

 

これはもう、

生きてさえいれば過去を全て活かす事が可能、

いや、現在進行形で活かしている

という意味なのではないでしょうか。

 


改めて問います。
役に立たない過去とは何ですか。

過去は過去である時点で全てが自分の役に立っています。

 

「あれがあったからいま進めない」?

 

むしろ逆にあれがあったからこそ、

「君子危うきに近寄らず」

という諺(ことわざ)にある様に、

それ以上の危機から逃れられた

という事もあるのでは無いでしょうか。

 

またかの有名な本「嫌われる勇気」では、

 

 

トラウマを持っている人はそのトラウマを

前に進まない理由として利用しているとも言っています。

 

それはトラウマを抱えた本人が、

前に進まないことによって生じるメリットを

無意識のうちに享受しているからだと。

 

ところがこの無意識のメリットというのは

向き合おうとするとそれゆえのデメリットにばかり

目が向いてしまう厄介な性質があります。

 

「このトラウマののせいでこんな苦労をしている!」

というところにばかり目が行き、

メリットの方に目を向けようとする

自分を止めようとする。

 

そうでなければ

進んでいない自分を責める理由が出来てしまう。

 

相手を責める言葉が誉め言葉より余程出やすい事も、

この事態に拍車をかけます。

自分で自分を守る意志が強ければ強いほどに。

 

でもその行動は長い目で見れば、

結果的に自分の首を絞めているのと同じ。

 

自分を見つめて反省するのにも、

追い詰められていない

冷静な状態でしなければ判断を見誤りますし、

反論するなとも言いません。

 

ですが逃げ続けても結局は向き合わないと、

「自分にとっての」最善の結果は得られません。

 

自分にとって最善の結果を導くためにも、

自分と向き合って自分の

「本当の幸せ」

を探り出さなければいけないんです。

 

 

人は経験を無意識のうちに活かす選択をしている。

 

過去の経験を活かすというのは本当に無意識だから、

自ら過去を振り返らないと

活かしている事に気づかないんです。

 

勿論、

ここに書いてある事が気休め、

詭弁(きべん)だと言えばそれまでです。

詭弁とは、間違った内容・意見を正しく見せかけたり、

自分の意見に言いくるめようとしたりする話し方のことを指します。

 

実際この話を聞いたところで、

すぐさま現実に反映されて、

現実的なメリットを物として

得られるわけじゃありません。

 

ですがここでこの知識を活かそうと

自分に向き合うことをしなければ、

また無意識に経験を活かしたまま、

その事実に気付かずに

絶望して生きることになるでしょう。

 

「やることが決まっている時の長考は全て価値がある」

俺のポリシーです。

 

考えれば考えるほど結果は近づき、

能力は磨かれ、思想は深まり、

閃きの助けになり、道を誤ることが少なくなる。

 

振り替えるなら今、ではないでしょうか。

 

長文失礼しました。

読了お疲れ様です。

それではまた。