去年の11月26日、なんでもない一日だからこそ意味がある。
5日目の過去の日記です。
この日は比較的穏やかな日だったようです。
今日はリズムケアに書いてあった目標を実行できた。勤行以外。
勤行に関しては遅くまで会合をやっていたというのもあるが、だいぶ決心が薄れてきている。
勤行については親にやるように言われて書いただけなのでほぼノーカウントです。
ちなみに会合についてですが、基本的に会合は社会人をしている信者の人たちに配慮して、基本的に夜に行われています。
勤行をするときは声量は極力抑えるように配慮しています。
会合の内容としては、だいたい今後の別の会合の日程であるとか、最近あった出来事などを話し合ったり、聖教新聞に書いてあった指導について、地域をまとめるリーダーの人が率先してコピーしたものを持ってきたりして、理解を深めます。
俺は最近はほとんど顔を出していませんが。
やっぱり何も言われないとダメなんだろうか。
まあ一応リストにはしてあるし、今後の結果次第だ、気にするな。
2.その気持ちになったのはなぜですか?
なんか自分との約束を破るのが平気になってきている。
これ地味にヤバくないか?
でも原因すら見えない現状であがいても無駄だよな。
時が来るのを待つしかあるまい。
当時はちゃんと仕事をしていたので、焦らなくとも暮らしていけるという安心が、真剣でなくさせていたのかもしれません。
この昔の自分に言えることとしては、原因というのは見方を変えれば意外とぼろぼろ出てくるもんだ。
探る前から待ちの姿勢に移行するのはお勧めできない、というところでしょうか。
しかし、後々起きた後悔を糧にすれば、この判断だって貴重な経験の一つ。
極論誰にとっても、昔の自分に不正解なんてないのかもしれません。
俺は、まだ年若いうちから自分の能力の低さに気づくきっかけが多くあって幸福だったと思います。
社会、とりわけ日本では縦社会が基本です。
上のものには逆らえないし、ひどくなると意見一つ通してもらえなくなる。
もし俺が人並み以上の能力を持っていて、その能力だけを駆使して高い地位についていたら、こんなにも日常に満ち足りる精神を持つことはまずなかったと思います。
スピリチュアルの世界では、人間は生まれてくる前に、自分でこんな人生にしたいと設計図をあらかじめ決めて生まれてくると言います。
ちなみに創価学会にも願兼於業(がんけんおごう)といって同じような概念があります。
生まれてくる前の俺はさぞ慧眼を持っていたのでしょう。
3.明日の小さな目標は?
いつも通りに過ごす。
あと、朝はなるべく計算問題を解く。
この日の日記はこんなところでした。
なんとも無意味な時間を過ごしているかのように見えますが、最近また思想の変化があり、この一見無駄に見える時間にも、大きな意味が含まれているのだと分かるようになりました。
いずれお話しすることもあるでしょう。
それでは今回はこの辺で。